「『気づき』の3階梯」ルパート・スパイラ

『気づき』の3階梯

目覚めや気づきを深めていく個々のさまざまな段階にあって、私たちはどこに向かっているのか、どのようなあり方へ移行しようとしているのかといった無限かとも思える道のりに、ともすると途中で無念にも道を放棄してしまい、半ば諦めの境地で架空の現実に折り合いをつけていく生き方に収まってしまうことも多々あることだと思います。そんな時、先達のスピリチュアルティーチャーたちが指し示してくれる愛の言葉が、一条の光となって私たちの体験の中に溶け込んでくることがあります。

今回のルパート・スパイラの動画では、短いながらも端的に、明確な道標が示された感があります。つまり、スピリチュアルな実践は、愛として、幸福として表現する生き方であり、今私たちは、架空の分離した自己として生きることから、気づきとして、知として、愛として生きることへ移行していっているということです。山頂を極めるにもいろいろな登山道があるとよくたとえられますが、このルパート・スパイラの示してくれている道は、「確かに、そうだよ!確かに!」と認識を深めていけるかなりグランディングした道だと、只今体験真っ最中です。しばらくは、ルパート街道を楽しんでみようと思います。

以下、動画で語られている3つのステージを感単にまとめておきました。

Stage1: 私とは、常に変化する私のすべての体験を気づいている『気づき』である この気づきは、今ここにおいて誰にとっても開かれた、明らかな気づきである

Stage2: 私の本質である『気づき』の本質とは何かを、直接体験的に認識していくこと(これには数年の歳月を要する)

・気づきの本質:時空間の枠には属していない。肉体の制限にも属さない。無限、無時間である。客観的要素はない。
・分離した自己のもつ2つの主な感覚の終焉
①「死への恐れ」(この恐怖心を避けようとする活動) ②欠乏感(この欠乏感を満たそうとする活動)

Stage3: 首尾一貫した「気づき」としての私として生きるプロセス。この理解(ステージ1.2)のもとに、人生全般(思考、感情、行動、ものの見方、他者との関係)を、どのように表現していくか、人生を通したアートが繰り広げられていく。これは永遠に続いていくプロセス。(愛と幸福、平安の表現)

1)私とは「私のすべての体験に気づいているもの」

ルパート(2)そもそも「私」とは何でしょうか?私とは「私の体験に気づいているもの」であることは明らかです。私は、自分の思考、自分の感情に気づき波の音、海の景色に気づいています。私は、紅茶の味、この部屋の様子に気づいています。私は気づいています。私は気づいています。私は、すべての体験に常に浸透して気づいているものです。このシンプルな事実、「私の本質は気づいている現存(プレゼンス)である」と知るために、なぜ私には20年もの歳月がかかったのでしょうか?理由はわかりません。私には必要な準備期間だったのです。私は、マインドを鎮めるためのいろいろな練習に没頭していたのです。

でもある時、私は「私とは、私のすべての体験に気づいているものである」というシンプルな事実を知ったのです。対象物のある体験として知られているものはすべて、私という気づきがあるからだと知ったのです。しかし、「それ自体」が対象物して知られることは不可能です。それは至ってシンプルで明らかなことでした。これを理解するために、20年間の準備期間は必要ありません。これは通りがかりの人、誰に聞いてもわかることです。彼らがオープンで、自分の体験を探求してみようという気持ちがあれば、それはそんなに時間がかかるものではありません。

2)私の本質である「気づきの本質」とは何か?

それから・・・次の質問が出てきます。これは最初の発見があったら、避けて通ることのできないものです。「私の本質は気づきである」それはわかった。では「この気づきの本質とは何だろう」というものです。私たちは「私は、頭で考え、目で物を見てハートで感じている」と思っています。第2の探究は、最初の発見のように簡単にはいきません。最初の探究は、比較的簡単です。

私たちが人生を通して「私」と呼んでいるものは、「変化するすべての体験に気づいているもの」という明らかなことです。初めのうちは、誰もがこの「気づいている存在」「気づきの現存」は、この自分の中にあって、肉体の制限を共有しているものだと思ってしまいます。例えば、目を閉じてみます。すると、私たちにはもう世界は見えません。だから私たちは、世界を見ているものは、目の裏側に位置しているに違いないと思ってしまうのです。目を閉じれば、もう世界は見えないのですから・・・。「私」は「ここ(頭)」にいると信じてしまう、感じてしまうのも完全に理にかなっているように見えるのです。私は、目の裏側、耳の裏側にいて、感じているのはハートだと思ってしまうのも当然です。

「私は気づきである」と知った後の次のステージは、「この気づきの本質とは何か」を探求していくことです。これには数年かかりました。私は師に初めて出会った時、衝撃を受け、それからは、すべての時間をこれに費やしました。「私のすべての体験に気づいているこの気づきの本質とは何か」ということを見続けていったのです。「気づきの本質」には一時的で、また、有限である形跡があるようにも思われます。つまり、「気づきの本質」にも運命と肉体の限界を共有している形跡があるように思われます。私はその形跡を見つけ出そうとしました。ただ気づいているという非客観的な体験を通して探してみたのです。しかし、私はそこに客観的な要素を見つけ出すことはできなかったのです。

私たち誰もが「私は気づいている」と知っていること、それは疑いのない体験です。「気づいているという体験」が体験なのです。それは独特の体験です。思考や感情、ものの見方のように客観的な体験ではありません。客観的な要素がないので、時間的にも空間的にも制限がありません。私は、今説明していますが、かなり合理的に説明しています。しかし、「私の本質とは知である」という発見は、体験的な発見なのです。私とは、これらすべての体験を知っている「知」なのです。これ自体に制限はありません。それは制限の感覚からの解放です。私は生まれて私は死ぬという時間からの解放、そして、空間からの解放、私は有限ではない、無限であるという解放です。

「死への恐れ」「欠乏感」の終焉

images (6)この発見は、次々と起こり続ける体験的な発見です。私には何も必要がない。私は自分自身で完璧であり、満たされているという発見です。これによって「欠乏感」が終わります。つまり、これら2つの発見があります。私は、時間内に定められていない。私は、現れることもなく消えることもない。私は、生まれたのでもなく死ぬこともない。これで「死への恐れ」が終わります。また、私という意識は完璧であり、何も必要ではない。思考、肉体、世界から何も得る必要がない。この発見が「欠乏感」に終止符を打つのです。

これら2つは、分離した自己が感じる主な感覚です。「死への恐れ」と「欠乏感」です。架空の分離した自己の活動は、すべて「死への恐怖心」を避けること「欠乏感」を満たすことという活動になっているのです。分離した自己が自分であると信じ込んでいる人は、誰もが人生を通してやっていることです。

ですから、私とは永久であり制限がないということに気づいていくことは、考え方、感じ方、人との関わり方、物の見方、行動の土台に、新しい息吹を吹き込んでいくのです。「私は気づきである」という発見は単なる発見であり、これが発展することはありません。「私とは明らかに気づいているものである」という発見だからです。しかし、気づきそのものを認識していくことには限度がありません。それは非客観的な体験であり、確かに、そうだよ、確かに、そうだよ!という認識です。

3)この理解のもとに生きる~終わりなきプロセス

私の体験すべてを知っている私の本質には、制限がないのです。この認識から元に戻ることはできません。しかし、この後には、終わりなきプロセスが続きます。この感覚的な理解の上で、どう生きるかということです。この認識が私たちの考え方、感じ方ものの見方にどう影響してくるか、私たちの行動、他者との関係性においてどのように影響してくるかということです。これは3番目のステージで、永遠に続いていくものです。体験のすべての側面思考、感情、ものの見方活動、他者との関係をどう統治していくかということです。これは終わりなきプロセスです。これこそが人生のアートなのです。矛盾なく一貫したあり方で、人生すべての場面において生きていくのです。この理解の表現として、人生を生きていくということです。

by Rupert Spira “Are there stages of realization?の日本語訳 翻訳者平山由紀子

1 comment
  1. yukikoさん貴重な動画ありがとうございます☆自分とは何かまだわからないまま、愛に生きたいと思っていました。
    私の本質は気づきであるというのはわかります。その次の 気づきの本質がまだ分かっていないというのがわかりました。その後に、その愛を知を表現する生き方があるんだとわかりました。すっとばして苦しんでいたように思います。あせらずにいこうと思います。
    ルバートさん素敵な方ですね。ありがとうございました。

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