夢の中のスピリチュアル物語が終わる時
以前、「スピリチュアル」という名の伝染病にご用心という記事を書きました。この記事は想像以上に多くの人に広がって共感を得るものとなりました。これは、すでに多くの人が夢の中を突っ走る「スピリチュアル物語」に疑問を抱き、その不自然さに気づき始めている証です。「スピリチュアル」がいつしか産業化して、売り物と成り果ててしまったことは否めない事実です。アジャシャンティに言わせると、その「約90%」が夢の中で夢をふくらませるスピリチュアルだということになります。逆に夢をふくらませてくれないスピリチュアルは、あまりにも味気なくそっけなく「得・利益」にもつながらないので見向きもされないのです。これはスピリチュアリティを「現世ご利益」のツールとして捉えて「利用する」つき合い方と言えるでしょう。
分離感を増幅する「スピリチュアリティ」からの目覚め
何かを目的としてスピリチュアル・レッスンに取り組むと、今ここにすでにあるもの、あることを見逃してしまいます。「私たちは、霊的体験をしている人間なのではなく、霊的存在である私たちが人間を体験しているのである」(ピエール・ド・シャルダン)ということに気づかずスピリチュアルになろうと頑張ることは本末転倒であり、もともと存在するありとあらゆるものがスピリチュアルなのだということに目覚めなければ、孤立した「スピリチュアル・エゴ」が大手を振ることになるだけなのです。
今回のアジャシャンティのショートビデオは、この分離した「夢の状態」を超えたひとつのスピリット、いのちに繋がった生きたスピリチュアリティへの目覚めをサポートしてくれるものではないかと思っています。
いつもありがとうございます。
with vaststillness
We are not human beings having a spiritual experience. We are spiritual beings having a human experience. (by Pierre de Chardin)
アジャシャンティ「スピリチュアリティ」=すべての存在に繋がって生きること
まずほとんどの場合、スピリチュアリティは夢の中の作り話になっています。完全に「夢の状態」の中でのお話になっています。スピリチュアリティと言われているものの90%は「夢の状態」から目覚めるためのものではなく、「夢の状態」のためのものだと私は思っています。残りの10%は「夢の状態」を超えた領域に繋がったものです。つまり、生活、いのちあるもの全存在に繋がっているスピリチュアリティです。ですから、スピリチュアリティと生活・いのち、全ての存在は同じものなのです。何かと分離しているものをスピリチュアリティとは言えないのです。
少なくとも私にとって、そのことに気づくことが目覚めの一部なのです。初めて私が禅マスターに言ったことは、その時禅マスターに厳しく諭されるのではと思ったのですが、「私は禅から、スピリチュアリティから目覚めたように感じているのです」と伝えたのです。すると禅マスターは私に微笑んで「そこなんだよ、そこが重要なんだ」と言ったんです。だからと言って、私が禅を捨てたとかスピリチュアルな生き方をやめたということではありません。
スピリチュアル・ファンタジーからの目覚め
そうではなく、自分の中で作り上げた禅というファンタジーの世界から目覚めたということです。このいのちと分離していた幻想から目覚めたということなのです。どんなスピリチュアリティであってもこの生活・いのち、存在と分離しているものは幻想だと思っています。目で見て、触れて感じることの出来るものだけを「存在」と言っているのではありません。それは「存在そのもの」であり現れているとか現れていないかは関係ないのです。(アジャシャンティ)
4 comments
こんばんは yukikoさん☆
ありがとう♪ありがとうございます♪
愛をこめて… nobuko
仏教の方便という言葉を思い出しました。仏教学者ではないので、ネット検索でしらべてみると、ちょっと次元が低い話かも知れませんが「嘘も方便」とか、釈尊が説かれた「三車火宅の譬え」yahoo知恵袋より、出てきました。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1444296084
この喩え話が90%と10%のことに似ているように思いました。(ちょっとずれてるかもしれませんが) いずれにしても貴重なビデオクリップありがとうございます。
nobukoさん~お久しぶりです。
こちらこそありがとうございます~☆また会いましょうね
kentakeさん、こんにちは!
kentakeさんの話は、高尚すぎてわからなかったですよ(笑 こちらこそ、いつもありがとうございます~☆