エゴと友だちになることは出来ますか?「偽りの自分」と「本当の自分」が友だちになることは可能ですか?
エックハルト: 私がエゴと言う場合のエゴは、あなたがそれに気づいた時、それはエゴではなくなります。言い換えると、あなたの中でエゴが働いているのに、それさえわからないもの-それがエゴです。つまりエゴとは、あなたがその存在に気づいていないものと言えます。強烈なエゴの持ち主は、エゴが何であるかさえ知らず、エゴについて学ぼうなんて興味も抱きません。ましてや、自分が巨大なエゴの持ち主だなんて思ってもみないでしょう。エゴをエゴとして認識することが出来ないからです。
あなたがエゴを認識すると、それはもうエゴではなくなります。それは単に、まだ働き続けている今までの古い行動パターン、思考パターンに過ぎません。例えば、あなたがよく有名人の名前をあげて、さも知人であるかのように話をする癖があるとします。「ダライ・ラマに電話をしなくちゃ。彼が私からの電話を待ってから・・・」。でもそれを口にした瞬間、あなたはそれがまったくのウソだと気づき、その瞬間に、自分で「誰かになりたいエゴ」「誰かに認められたいエゴ」に気づいたら、あなたは今に在り、その時それはもうエゴではないのです。
思いやりを持って「気づき、手放す」
ある時あなたは、また同じようなことを言い出しそうになる自分がいることに気づきます。例えば、あなたの友人が「あなたの携帯の電話登録にどんな人が入ってる?私のにはオプラ・ウィンフリーが入ってるのよ」と言ったとします。でもその時のあなたは、ひと呼吸おいて、負けじと同じように有名人の名前を上げようとしている自分に気づき、それを手放しています。
エゴの衝動、エゴのパターンに気づいた瞬間、ある自由さがやってきます。エゴのパターンは依然と残っていますが、あなたはもう完全にはエゴに取り憑かれていないからです。その習癖と完全に同一化していないのです。「それらの習癖と友だちになれますよ」とは言えませんが、思いやりを持って自分自身と付き合っていくことはできます。古い習癖には勢いがありますが、厳密に言うと、それはもうエゴではないからなのです。エゴというのは完全に無意識な場合のことを言うからです。
ですから、あなたはエゴとは友達になり得ないのです。それにエゴを敵として扱うべきでもありません。エゴを敵として扱えば、エゴにもっと力を与えてしまいます。つまり、エゴは、あなたの友だちでもないし、敵でもありません。エゴとは、単にあなたを乗っ取り、無意識にしているものです。
エゴは友達にもならないし、敵でもない
よくある過ちに、エゴを敵にまわしてしまうことがあります。エゴを敵に回すと、エゴは裏口から入ってきます。もう一つの過ちは、エゴと戦ってエゴに勝てると信じ込んでいることです。エゴに勝つことは出来ません。戦っている限り、あなたはエゴの一味です。
ですから、エゴと友だちになるという言い方ではなく、無意識の状態だった古い習癖が認識され、それに寄り添っていくという言い方が適切です。そうしながら、同時に意識の光が現れてきています。意識の光があるからこそ、それらを認識できているのですが・・・。
自分を責め、いじめるのではなく(それはまた無意識になった証拠です)、思いやりを持って「また出てきたね。また同じことやってるね私~おかしいね!」と言ってあげるのです。笑うのもいいことです。自由になれます。自分のエゴのパターン、エゴの衝動に笑うことができれば、出たがり屋のエゴを捕まえることが出来ます。例えば、「彼らは完全に間違っている」と思い、その時何か言いたい、意見を言いたくてしかたない自分が出てきたとします。でもあなたが何を言おうと、その時のその状況はまったく何も変わらないのです。それは単なる意見にすぎないのです。
「これを手放したらどうなるのだろう」「やってみよう」
ですから、自分の心の状態をよく見ること、何を主張したがっているのかをよく観察して、「これを声に出して言わなくてはならないのか、それとも手放すことができるのか?」しっかりと自分に向き合い問いただしてみるのです。「これを手放したらどうなるのか試してみよう」とやってみるのです。でも無理矢理「あっちへ行け!嫌なんだから!客観的に見るんだ!」とやらないことです。そうではなく「これを手放してみよう。自分の知識を今主張する必要はない」とやってみるのです。これは決意とかそういうことではありません。ただ手放し、その時どう感じるかを見てみるのです。
あなたがエゴのパターンに気づいて、それを手放していく時、ちょっと不思議なことが起こります。まず、自分自身が小さくなったかのように感じます。なぜなら、ある状況において、いつも自分が主張していたエゴ的なものの見方の行き場がなくなるからです。ですから、なんとなく自分がなくなったように感じるのです。でもこれは最初のうちに感じるだけです。そのうち深みを感じるようになってきます。なぜなら、エゴというのはいつでもお山の大将(「山」)でいたがるからです。主張したがりで、目立ちたがりで、特別な人になりたいのです。それもあなたの意見となって、声高らかにできていれば納得なのです。
真のアイデンティティに繋がって生きる
一方、「谷」もあります。エゴは「山」とは反対に「谷」であることを好みません。イエスの教え、タオの教えなどの中で「高みから自己主張するのではなく、身を低くすること」が説かれています。それが、形ある権力ではなく、真のパワー・形なき本質=真のアイデンティティに繋がるのです。
ですから、最初のうちは、エゴの要求に答えなくなるのでちょっと戸惑うかもしれません。でもある時突然、真のパワーに繋がっていることを感じるでしょう。そして、何かしなければとか、何か言って自己主張しなければと感じることもなくなっていきます。それが真の平穏であり、いのちある在り方です。それを感じられたら素晴らしいことです。でも、しばらくの間は、あなたの中に生き続けている古いパターンに寄り添ってあげてください。それも本当に必要なことです。自分はダメだ!と責めないでください。今のその調子でOKです。You are doing fine!
by Eckhart Tolle
引用文献(2016/2/8) http://bit.ly/ET-TheEgo
5 comments
いつもありがとうございます。
またしてもとてもタイムリーな内容でした。私自身、混同して、混乱して…はてさて「?」となっていたところでした。ありがたかったです。
>エゴというのはいつでもお山の大将(「山」)でいたがるからです。主張したがりで、目立ちたがりで、特別な人になりたいのです。それもあなたの意見となって、声高らかにできていれば納得なのです。
ああ、これは耳が痛いですね!
特に、スピリチュアルなエゴイズム。
スピリチュアルなエゴイズムは本当に、深い病です。気づくまでは。
だけども、気づくと、自らが自らのリーダー、道先案内人になれますね!スピリチュアルなエゴイズムに気づいたおかげで。あはは。
気づいた分だけ、ちょうどよく。調和して。
ちょうど、必要な記事だったので、感謝です!
最近街行く人、みんなすさまじい勢いで、
思考で頭の中が爆走しているように見えます。
エゴにまるで振り回されてるみたい・・。
今このときに集中してみようとすると、
止まることがいかに大事か、少しずつ体感中です。
エックハルトが言っていた、目の前に集中しないで、先先ばかり
というのはあのことなんでしょうね・・。
エゴを排除しようとすると、エゴになるのかなあ?
エゴと争わずに居座らせてあげれば、それを眺める者であるならば
平和でいられるかなあ・・・。
レンタルですがイリュージョンとアウェイクニング見ました
非常に参考になりました