死は突然に
地球人のためのスピリチュアル・レッスンでオープンクラスを始めたばかりの頃(2010年頃)、毎回クラスに参加してくれていたS氏が心筋梗塞で亡くなったと昨夜報告を受けた。実は昨年末、S氏からFBを通して数年ぶりに連絡をもらい再会し、春先にでもコラボイベントをしようと計画し始めていた矢先の事だった。久しぶりに現れて、突然旅立ったS氏。つい先ごろまであったと思っていたパーソナリティーもストーリーも全部置いていってしまったのだろうか?それにしても、私には人のいい彼の声が聞こえてならない「由紀子さ~ん、お役に立てずにスミマセンでした~」と。
この体験をきっかけに「死について」語る動画を追悼の思いも込めてアップしました。アラン・ワッツは、子ども心を失って生きているようなら、自然(神)の意志を満たすことが出来ない、ゆえに次の世代にバトンタッチする時期だ!というようなことを言っていましたが、中には子ども心を持ち続けたまま逝く人もいる。死は思いがけずやってくる。しかし、これもみな善きことのための予定通りなのだろうか?
しばらくは「死」をテーマにしたスピリチュアルレッスンが続くかもしれません。心からご冥福をお祈り申し上げます。
もし、死がなかったら?
病気になることも死ぬことも、まったく何も悪いことではない。「生き続けなくてはならない」と誰が言ったのか?「永遠に生き続けることは面白いことだ」と誰に教わったのか?何から何まで生き続けることがいいとは限らない。ひとつ、誰もが生き続けることが出来ると想定してみよう。そうなったら、この地球は定員オーバーになってしまうだろう。だから、ある人が死んでいくということは名誉あることだ。なぜなら、そうすることで他の人に場所を提供しているからだ。
さらに深く調べていってみよう。もし、私たちの死が無期限に延期できる可能性があるとしたらどうだろう?そうだとしたら、私たちは確実に死を無期限に延期するようなことはしないだろう。なぜなら、人生のある時期がきたら、これは生き続けたいと思うような状態ではないと気づくからだ。私たちに子どもがいるのはなぜなのか?子どもたちは、また違った方法で私たちを長生きさせてくれている。言ってみれば、それはたいまつを次に渡すようなものだ。そうすれば、あなたがずっとたいまつを持ち続ける必要がない。あなたの力が尽きた時、次の人に頑張ってもらえるのだ。いつも同じ人が生命を引き継ぐより、色々な人が生命を引き継いだほうが、自然にとってはより楽しいことだからだ。なぜなら、新しい人間は新しいやり方で人生を切り開いていくので、人生が更新されるからだ。
「死ぬことは恐ろしい」という刷り込み
人は、子どもの時、ありふれた日常のすべてのことが驚異に満ちていたことを覚えている。子どもの時は、何もかもが素晴らしい。なぜなら子どもは、ものごとを何でも利益と存続に結びつけないからだ。大人がやっているように、すべてを利益と存続に価値を置くようになったら、床に書いた落書きは何の魅力もなくなっていく。それだけでなく、実際何もかもが不思議なことではなくなっていく。つまり、私たちがこの世界に何の魅力も見いだせず、何も不思議に感じられなくなったら、私たちは自分自身に目覚めたいと思っている自然のゲームを満たすことができない。もう意味がなくなるのだ。それで私たちは死ぬ。そして、まったく新しい視野でものごとを見ることの出来る他の人間が誕生するのだ。
だから、無期限に生き延びたいと思うことは、私たちにとって自然なことではない。しかし、私たちはあらゆる手段をとって「死ぬことは恐ろしいことだ」と刷り込んでくる社会に生きている。これこそが、私たちの社会が侵されている最も重症な病なのだ。
by アラン・ワッツ