1年ちょっと前にアップしたルパート・スパイラの動画「瞑想がエゴの迷想にならないように」をブラッシュアップして再度アップロードしました。
「瞑想」がエゴの「迷想」にならないように
これもまた、言葉のトリックも関係しているのか、私たちはつねに「迷想」しがちだということを教えてくれるものですが、私たちは「瞑想する」という言葉を使います。つまり、それは動詞であり「すること」「動き」を意味しています。ですから「瞑想」を「するもの」と捉えるのも無理は無いのです。でもこの辺りでもう、瞑想してどうにかなりたいと思う「迷想」からは目覚めていきたいものです。
今回初めて、アドヴァイタ、非二元性のティーチャーであるルパート・スパイラの動画を取り上げてみました。ルパート・スパイラは、私たちの実体験に問いかけてそこから真実を見出していくという21世紀版禅問答とでも言えるスタイルで、私たちを優しくこのイリュージョンの世界から「目覚め」に導いてくれるマスターです。常に「気づき」として存在し続けているということがいとも簡単に腑に落ちる~そんなシンプル&アメイジングマジックを誰もが体験できる時が来たんですね!素晴らしいことだな~と思います。
瞑想に関しては、以前のオープンクラスでもクリシュナムルティの瞑想を語る動画の一部を紹介したことがありましたが、クリシュナムルティも「自分自身であることが瞑想であり、つまり誰からも学べるものではない」「あなたが自分自身を見つめ、どう歩いているのか、どのように食べているのか、何を話していのるかを客観視し、話していることや憎しみや嫉妬を見つめ、あなた自身の中で、これら全てのことに思考を差し挟むことなく気がついているとき、それはすでに瞑想になっている」と語っていました。
今の私たちには「瞑想」が必要だとよく言われるようになりました。瞑想をする前に、こうして「瞑想する」ことで陥りやすいワナを知っておくことはとても大切なことだと思います。そうでないと「迷想」を何十年もやることになってしまうからです。私たちの「思考」は、一歩間違えば「瞑想を習おう」とメソッドを求め「雑念をなくそう」と東奔西走し始めます。ともすれば現実逃避、エゴの優越感を増殖させることにもなりかねません。「瞑想」は、この世で一番簡単なこと、呼吸することより簡単なこと!自分とは「気づきの光」そのもの!感謝☆
「瞑想すること」と「瞑想そのものになること」の違い
「瞑想する」ことと「瞑想状態である」ことの違いをまとめておきました。
「瞑想する」
・マインドを操作する、マインドを何かに集中させる、ある状態になるように仕向ける。
・分離した自己(エゴの自分)は、肉体と精神、思考が自分だと捉えているので、瞑想に関しても「するもの」「一つの活動」「平安を得るためのもの」と理解し、瞑想を通してあることを「達成」しようと試みる。
・物質的なものを手に入れるのと同じ意識で瞑想を通して何かを得ようとする。
・実際、マインドは鎮まり、つかの間の静けさ、平安を得ることが出来る。
「瞑想そのものになる」
・瞑想=私たちの本質そのもの、ただ存在すること、ありのままの自分であること
・意識的に「気付きとしての自分であること」
・自分とは常に今ここにある、何にも動じない光の気づきであると知ること
・その状態に留まること
ルパート・スパイラ:「瞑想」は「するもの」?
「瞑想」というと、普通私たちはマインドの活動のひとつだと考えます。マントラ、ロウソクの炎、呼吸、その時々の状況などを使ってマインドを集中させることが瞑想だと思っています。つまり、普通「瞑想」というものは「するもの、活動」のひとつだと考えられているのです。しかし、ここで捉えている「瞑想」は、そういったものとはかなり違ったものです。マインドによってなされる活動として「瞑想」を捉えてはいません。ここでいう「瞑想」とは、今ここにただ「気づき」として存在するということを意味しています。
私がここで言っている「気づき」という意味がわかりますか?
‐はい、わかります
「気づき」として存在するためにマインドがすべきことはなにもありません。自分自身が「気づきそのもの」であると知るために、マインドで何かしているからとか、していないからということはまったく関係ないことです。
例えばです、あなたは今この瞬間、自分の体験に気づいていますか?
‐はい
明らかに気づいていますね。あなたは、ここでの会話、この環境・景色、自分の思考もちゃんとわかっています。今、自分の体が何を感じているかもちゃんとわかっています。すべてのものは変化し、動きがあり、流れゆくものですが、あなたは常に、その時々それらすべてに気づいている存在です。
「気づき」の存在であるためにあなたは何か努力していますか?
‐いいえ
それとも自然にそうなっていますか?
‐そうです
あなたはそれ以外の存在であることができますか?
‐いいえ
今までそれ以外の存在であったことがありますか?
-いいえ
そうですね。
「瞑想すること」で幸せを見出そうとする「思考」
では例えば、自分がそれ以外のもの-自分とは「思考と感情でできているものだ」とイメージして実感するために、あなたは何をしなければなりませんか?あなたは、自分の本質を忘れるか、あるいは、見失わなくてはなりません。自分の本質の代用として、自分とは思考と感情で出来ているものだとイメージしなくてはならないので す。私たちがしているのはそういうことです。「私たち」と言いましたが、はっきりいうと、それが「思考」のしていることです。なぜなら「思考」は「気づき」を見ることができないからです。
「思考」はスクリーンに映し出された映画の中のキャラクターのようなものです。スクリーンなしにキャラクターは存在しえませんが、キャラクターがスクリーンを見ることはできないのです。ですから、「思考」は「気づき」を見つけることはできないのです。「気づき」は透明で空(くう)形のないものだからです。それとは違って、「思考」は、「私たちは思考であり感情である」とイメージしています。言い換えると「肉体とマインド」が自分だと思っているのです。その想像力によって、思考と感情でできた幻の自分が現実味を帯びて作りだされているのです。
思考によって「分離した自己」が想像されているのです。ですから私たちは、自分とは「分離した自己」であると感じているのです。私というのは「この肉体」「このマインド」であり、その私が気づいているのだと思っているのです。
そこで私たちは、自分が幸せでないとわかった時、ありきたりの物質的なものに幸せを見出そうと探し始めます。そして、物質的なものがどれもこれも幸せを満たしてくれないとわかると、私たちは、より物質的ではないものに幸せを探し始めます。そこで私たちは「瞑想」といわれているものを知るわけです
しかし私たちは物質的なものを探し求める時とまったく同じやり方で「瞑想」に取り組み始めるのです。ものや活動、人間関係などと同じように、今度は「瞑想」 といわれているものを新たに探求し始めようとするのです。ものでは達成できなかった幸せ、精妙なマインドの状態が、ついに「瞑想」によって達成される!と思うのです。
そこで「分離した自己」が「瞑想」というマインドの活動を始めるのです。大体の場合「マインドを鎮める」「マインドを集中させる」といったマインド の操作をし始めるのです。これは一時的な開放感を感じさせてくれるものです。なぜなら、マインドを鎮めようと一生懸命に集中すれば、ある程度は平安になる ものだからです。しかし、私たちが真に求めている「継続的な平安」はもたらしてはくれません「何にも邪魔されることのない平安」「マインド、肉体、世界の状態に左右されることのない平安」を得ることはできません。
「瞑想」とは「ありのままのあなたであること」
しかし、私たちがここでいう「瞑想」はまったく違ったものです。マインドを集中させたり何かの状態に仕向けたりするものではありません。「瞑想」と は、私たちの本質そのものなのです。「瞑想」とは、故意に「気づきの存在になる」なのです。言い換えると「ただ在ること」です。それこそが本来あるべき最高の瞑想なのです。ありのままのあなたであることそれが瞑想なのです。皮肉にも、これは世界で最も簡単なこと なのです。呼吸するよりも簡単なことなのです。マインドがある特別な状態になる必要もないのです。あなたが素晴らしく知的な人であっても、あるいは、まったく知 性のない人であっても関係ありません。心がざわついていても、平穏であっても、困難な状況に置かれていても、問題のない状況であってもそんなことはちっと も関係ないのです。なぜなら、どんな状況にあっても「気づき」としてのあなたは、いつだって存在しているからです。瞑想するとは、意識的に「気づきとしての自分であること」ただそれだけです。
すばらしいですね。
今まで、マインドの活動-「するもの」として瞑想をしてきたとしたら、私たちが座った時、マインドはすることがなくなって、存在価値を失って、何かと反抗してくるはずです。今までは仕事がたくさんあったのに、急に仕事がなくなったので反攻してくるのです。マインドは動揺して、あなたの注目を取り返したいと思い始めるのです。「こうした方がいいよ」「これは本物じゃない」「これじゃ十分じゃない」とかともかく、何とかしてマインドに関わっているべきだという理由を並べ立ててくるのです。マインドはかなりしつこいので、気がついたらマインドの迷路にはまり込んでしまうかもしれません。でももし、マインドに捕 らわれて自己を見失ってしまったら「オッと」ただ気づいていけばよいのです。
「瞑想」とは「気づきの光」として存在すること
マインドという電車がホームに入ってきたような感じに捉えるのです。”何気なくその電車の切符を買って乗ってしまったけど、電車から降りよう”電車 に乗って行ってしまうのではなく、電車だけ行きたい方に行かせるの。思考には、思考のやるべきことさせておき、思考の邪魔をしないことです。もし、あなたが思考に干渉し始めて、思考の言いなりにものなら、全宇宙の責任を取ることになります。なぜなら、全宇宙は思考と行動の産物に関わっているものだからです。思考が言ってくることを真に受けないことです。思考には自由にやりたいようにさせておけばよいのです。
その電車に乗って行ってはだめです。電車から降りることです。実は、電車から降りる必要もないのです。あなたの本質は、乗客というよりはむしろ駅のホームのようなものだからです。電車はあなたを通り過ぎていくのです。電車がどこへ行こうと、あなたの思考がどこに向かっていようと関係ないのです。思考は常に「過去」に行くか「未来」に行くかのどちらかです。行きたい方にいかせればよいのです。でも、あなたは決して思考と一緒には行かないことです。「瞑想」とは、自分とは常に今ここにある、何にも動じない「気づきの光」であると知ることなのです。ただそれだけなのです。そこに留まっていること、それが「瞑想」です。
-ありがとうございます。
7 comments
ルパートスパイラさんは、溝口あゆかさん翻訳の「プレゼンス」で知りました。
こちらで、初めて本人の動画を見ました。
そして、本で読むよりも
ただ在る=プレゼンスの意味が
深く解りました。
ただ、気づきとしてあるだけ、という体験が、やっとつかめました。
取り上げてくださり、ありがとうございました(*^_^*)
またぜひ、ルパートさんの映像が見たいです。
きゅ~さんへ
コメントありがとうございます。
動画のパワー、本人から語られる言葉は、ほんの数分でもとても内奥に迫ってきます。
私もきゅーさんと同感で、本で読んだルパートさんの教えが体感としてつかめました。
また他の場面も取り上げてみます。
ありがとうございます。
ルパートスパイラさんの動画の翻訳を載せて下さって感激です。
ありがとうございます。
私も溝口あゆかさんのブログを通してルパートスパイラさんを知りました。
非二元 ダイレクトパス に魅了されているところです。
ところでひとつ 気になったのですが
>「思考」は、映画の中のキャラクターにとってのスクリーンのようなものです。
この部分は
思考=スクリーンのようなもの
と いっているんですよね?
でもこれだと次の言葉と矛盾しているので この部分は誤りでは?とおもうのですが。。。
次の部分です↓
>スクリーンなしにキャラクターは存在しえませんが、キャラクターがスクリーンを見ることはできないのです。ですから、「思考」は「気づき」を見つけることはできないのです。
キャラクター=思考
スクリーン=気づき
と とらえられますよね?
これに 基づくと 先の
>「思考」は、映画の中のキャラクターにとってのスクリーンのようなものです。
この部分は
「思考」は映画のスクリーン上のキャラクターのようなものです。
というべきでは?とおもうのですが。。。。
英語ができないので ルパートさんが どう言っておられるのか わたしには わかりません。
YUKIKOさんは どう思われますか?
fortiesはわたしには意味不明ですが、意味としては…
「気づき」は映画の中のキャラクターにとってのスクリーンのようなものです。
の解釈で良いと思います。
はじめまして。いつも翻訳動画を楽しく観させていただいております。
わたしは今、ダイレクトパスに強い関心をもっており、
こちらの動画は本当にありがたく、感謝しております。
今現在では、ルパートスパイラの日本語翻訳の動画がこれだけですね♪
今後も彼の動画の翻訳を期待しています。(^ ^)
AKIKOさんの疑問はわたしも感じましたので、余計なコメントをさせてください。
下記はルパートスパイラさんの言葉です。
マインド、身体、世界は絶え間なく現れては消えて行きますが、
この、私たちの根本的な性質であるところの「気づき/実在」は、
現れることも消えることも動くことも変化することも決してありません。
「気づき」は、マインド、身体、世界のすべての現象がその中で生じる無限の空間のようなものであり、
私たちが自身の経験を厳密に調べてみるとき、「気づき」がそうした現象の実体でもあることを理解します。
(古閑博丈さんのサイトから引用:資料PDF)
http://resonanz360.com/files/
動画の中で、彼が実際にどのような表現をしたかはともかく、
彼が言わんとしている比喩はやはり、
「思考/マインド」=「キャラクター」
「気づき/実在」=「スクリーン」
で間違いないと思います。(わたし自身も実感としてそう感じます)
何かこまかい点を突っ込んでいる自分のエゴが恥ずかしいのですが、
AKIKOさんへの返答がないのが、気になりました。(^ ^;
なにか別の方法で返答されているのでしたらごめんなさい。
この私のコメントを掲載して欲しいと思っている訳ではありません、
と言うより、掲載はしないでください。
失礼なコメントをお許しください。失礼いたしました。m(_ _)m
みなさん、コメントありがとうございます。みなさんの洞察力でとても大切な部分の翻訳ミスに気が付かせていただきました。
「思考」というのは、スクリーンに映るキャラクターのようなもの
スパイラはこう言っています。
「気づき」=スクリーン
「思考」=映画の中のキャラクター
です。
キーポイントの場所で誤訳してしまい、申し訳ございませんでした。
これからも、スパイラを始め、ノン・デュアリテー非二元性を語る方々の動画も増やしていきたいと思っています。今後共どうぞよろしくお願い致します。
YUKIKOさん
明けましておめでとうございます☆
ルパート・スパイラ氏の動画、今回初めて拝見させて頂きました。こうした動画を僕たちにも分かり易いようにシェアして下さって本当にありがとうございます。(u_u*)
こちらの動画は人を瞬時に瞑想状態へと導くような素晴らしい動画ですね。
僕は視聴を始めてすぐ、なぜか心の奥深いところに小さな石が投げ込まれたような気持ちになりました。
投げ込まれた小石が地下に横たわる水脈へと落ちていくのですが、ずっと耳を澄ませても音は聞こえません。姿も見えません。
でも見えもせず音も聞こえないのに「届いた」という感覚だけが波紋のように心の中に広がっていきます。
何故かそんな不思議な感覚を覚えながら動画を拝見しました
と同時に、こうした動画をシェアして下さって、また記事として読みごたえのあるものとして届けて下さっているYUKIKOさんへの感謝を思いました。
ありがたいな、嬉しいな、という感覚をたえず、両手にたくさん抱えるほど感じました。
何かまだクリスマスのプレゼントが続いているみたいな気がしました。(笑)
実は昨年の中頃までおよそ10年近く、あまり思考の堆積物となるような情報が入って来ないように精神世界からもその他の知識・情報からも遠ざかっていた自分でしたが、
それも諸行無常というか昨年何かしらの節目を通過したような感があり、
本年からはYUKIKOさんのシェアして下さっているような精神性に深い響きを与えるものや、日常を生きる人々の何気ない喜び、あるがままに美しい自然の姿など、
目の前に映し出される様々なものと、それに響いている自分の心にフォーカスしていき、そこに生まれる喜びや感謝をありのままに表現していこうと、…なっちゃってます。(*ノ∀`*) すみません記事と関係無いことでしたが。
・・・
あと、動画・記事に関係あるかもしれない点ですが、
「瞑想そのものになる」
ということが主要なテーマとなっているかと思いますが、こうして動画を拝見したりYUKIKOさんのサイトに出会う中で自身の心に湧きあがる感謝や喜びを見つめる時、
僕は瞑想が私たちの本質そのものであるのと同じく、喜びや感謝が私たちの本質そのものであることに気付きます。
この気付きが正しいものかどうか。
それは単に、列車に乗ってやって来た思考という乗客か。
今は僕は考えません。ただ素直に喜び、YUKIKOさんにありがとうを言います。(*´▽`*)
その喜ばしい感覚に思考は霞みます。
・・・
ああ、また長くなってしまって。。( ,,-` 。´-)マッタク..
ともあれ、本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
改めて、この大きなプレゼントをどうもありがとうございます!
*.゚☆+ヽ(*´▽`*)ノ゙ +.゚*☆ さむ