スピリチュアルな探求・・・その動機は何か?
今回取り上げた動画では、「悟ったらどうなるのですか?」という質問に対して、エックハルトはエゴの性質、特にエゴの習性的動機について説明しながら、スピリチュアルな探求の方向性の軌道修正を提案してくれています。簡単にまとめると、以下①ではなく、②であることをオススメします、というものでした。しかし、ここは微妙なところで、②の動機にさえエゴは巧妙に忍び込んできます。それは「苦しみではない」あり方が「より幸福な、より平安な」あり方を求める動機になってしまい、結局はエゴの動機から抜けきれなくなってしまうからです。
① 不足感、不満足を埋め合わせるという動機による「悟り」の探求
② 苦しみではない在り方を見出したいという動機による「自由・解放」の探求
不足・満足、苦悩・幸福という幻想的な状態に翻弄されず、それらを包括して包容する意識の寛容さに身を委ねた時、今ここに在ることは「平安」しかありえないと感じます。
いつもありがとうございます。
愛と感謝と共に
with VastStillness
エゴの動機による「悟りの探求」は危険
質問者:「悟る」ってどんな感じですか?
エックハルト・トール:いい感じですよ。
質問者:私は、自分が何をやっているのか知る必要があるんです。自分が何をしているのか、悟ったらどうなるのかを理解して、精神的なプロセスを乗り越えていく必要があると思っています。
エックハルト・トール:「悟り」を探求する動機はさまざまにあると思います。あるものは、他に比べて効果があります。しかし、よくあることですが、エゴによって動機づけられた「悟り」の探求は危険を伴います。エゴは、今持っているもの、あるいは、すでに達成したことに対して不足感、不満を抱き、また、違うものに気を移し、これも満足できない・・・とやり続けます。エゴのよくやることです。
そして、エゴは「悟りの境地を開く」という可能性を聞きつけて、その矛先を「悟り」へと移していくのです。「これは今まで求めてきたものよりちょっとまともそうだ・・・。今までのものでは私は満足できなかったんだから、今度はこれにしてみよう!」。そして、エゴは当然のことながら目的を作り出します。今までも目的を作ってきたように、目的を作ってそれを達成しようと思うのです。今まで作った目的が達成されようが、そうでなかろうが、満足いくものでなかったとしても、エゴはまた目的を作るのです。
聞いたことが在るかもしれませんが、こんなことわざがあります。「不幸には2通りあるひとつは、望んだものが得られない不幸。もうひとつは、欲しいものを手に入れた不幸」。エゴが主導権を握っていれば、そのどちらかになります。エゴは、望みが達成されても満足できず、達成できなかったら他のことを探して、それならなんとかなるのではと思うわけです。そこで「悟り」が絶好の選択肢となるわけです。
「フェラーリを手に入れても満足できなかった。次にランボルギーニを手に入れてみた。それでも納得いかなかった。他のこともやってみたが満足できなかった」。「でも、『悟り』というものがあるのか・・・これに向かってみよう!でも、『悟り』って一体どういうことなのか知らないといけないな・・・。『悟り』を得るために何をどう頑張ればいいのか知っておかなくては・・・」とエゴは思うのです。「間違っちゃいけないし・・・。それを達成した暁には『私』がいなくなってしまうかもしれないし・・・。もしかして、自分が消えてなくなるしか達成の道はないのかもしれない。こうなってくると、本当に手にしたいのかわからなくなってきたな。そうだ!エックハルトにこのことを質問してみよう」。
誰も悟らない、あなたは悟ることが出来ない
これらに加えて、私がみなさんにお伝えできることは、「悟り」はあなたのエゴを満たしてはくれないということです。残念ですがそういうことです。エゴは、何かが現れ出るために、あなたのマインドの中で幻想、究極的なフィクションとして認識されている必要があります。ですから、そういう意味からも、実際には誰ひとりとして悟ることは出来ないと言えます。あなたは悟れないのです。
しかし、そこから抜け出せばそれは現れます。つまり、「悟り」というのは到達できるものではないのです。私は「悟りの境地に至った」とか「私は悟っている」とは思っていません。先ほど「気分がいいものだ」と言いましたが、それは今、気分がいいのでそう言ったまでです。私がわかるのはそれだけですから・・・。ですから「私は悟った」と主張することは、究極的にいうと正しい表現ではありません。なぜなら、それを言っているのは、そう主張しているのは誰なのか、ということになるからです。ですから、究極的に言うと、あなたは悟ることができないと言えます。
しかし、あなたが「人」としてはつかの間の存在であるということを理解し、「私・自我」という感覚なくなってきたら、突如として、他の何かが現れ出てくるのです。気がつかなかったかもしれませんが、それはすでに今までも在ったものです。それは覆い隠され常に見落とされていたものです。現存する意識は、すべての体験にあって常に見過ごされてきました。あるときには気がついたことがあったかもしれませんが、それは見過ごされてきたのです。なぜなら、催眠的な性質のある知覚の世界、特にマインドの世界が圧倒的な勢力を持っているために、すでにあなたに内在している本質が見過ごされてしまうからです。それは今までも在り今も在り、これからも在り続けるものです。
ですから、いわゆる「悟り」の探求が永続的な満足感を得たいという動機に基づいているとしたら、それはうまくいきません。スピリチュアルな探求をする修行者の中には、そうとも知らず何年も何年も、思考としてしか存在しない実際は存在しない「未来」と呼ばれるところに「悟り」を投影している人々がいます。「未来」というのは、あなたの頭の中の思考としてしか存在しません。「未来」を見た人、触れた人は一人もいないし、誰も「未来」にいることはできません。人生は常に「今」なのです。「未来」はありません。
苦悩を超えた在り方へ~「自由・解放」の探求
ですから、あなたが未来のある状態を探求しているとしたら、それは誤解です。もしあなたが未来に「悟り」を求めているとしたら、その探求そのものが邪魔になってしまうのです。しかし、「悟り」の探求には、他の動機もありえます。でもその場合「悟り」という言葉ではなく、「自由・解放」という言葉を提案したいと思います。そうなると、何かより満足のゆくものを見出そうとする動機ではなく、「苦しみからの解放」がその動機となっていきます。つまり、「悟り」の探求への動機はもうひとつあり、私は「自由・解放」という言葉がそれにふさわしいのではと思います。キリスト教の用語で言うと「救世・救済」という言葉がそれに近いと思います。あなたの人生において、苦悩が多すぎるようだったら、「苦悩を超えた在り方があるということを理解したい。それを何とか知りたい」と思うことも、「自由・解放」への動機としてよいものだと思います。
つまり・・・「ついに悟りの境地に至ったら、私は何を得るのでしょうか?」の答えは、「その質問をした人はそこに存在せず、それを体験することもないだろう」ということです。
by エックハルト・トール動画より
2 comments
まだ未熟者で御座います。最近自分の中で変容を少し感じています。何かにとそそっかしい自分に腹が立ち自分の甘さを感じます。今とはその問いかけに自らの高見を演出するのではなく目指すのは、自らの戒めとするため、己の中により高次な存在を設定するのは人の健康な精神活動の表れと信じています。人の健全な精神活動により多くの秘伝の技テクノロジーの発見など健全な形で生まれると確信してます。発明家のエジソンはタールを染み込ませた木綿をフィラメントにした実験を2000回も失敗しています。彼はそれを失敗とは言わず2000回の実験の積み重ねが一つの成功を生んだと言った。私はつまり今とはやはりたくさんのより多くの経験の積み重ねが高次な精神へと道びくその旅には苦楽が伴うと考えます。また凡人には気づかない物理現象に気づくことで揶揄される苦悩というものあります。私もまた揶揄され大事な道具を揶揄する人に捨てられた事もあります。悟(サトル)オーバーレイです。メッセージを読んで道びいてくれるのを感じます。私は今の準備を始めなければなりません。がまだ準備が出来てません。正しく理解する大事な期間だと考えてます。あと少しです。断捨離行います。古い物、古い考え方捨てるのもまた今です。解ってきました。あと少しです。 訳があってアドレス記載できません。準備が出来てないんです。僕も地球を守りたい。自然の摂理をまた試したい。導きに感謝します。有り難うございます。 功
今回のエックハルトさんの動画は
最高でしたが、今は再生できない状態に
なっていて残念です。
可能であれば、また見たいです。
いつもありがとうございます。