自問のプロセス「私は誰か?」
スピリチュアルな探求において、セルフ・インクワイアリー(自問のプロセス)というものがあります。自分というもの、その本質に目覚めていく段階で、自分自身の内面に問いかけ目覚めていくプロセスです。世界中でもっとも拡散されたセルフ・インクワイアリーの小冊子ラマナ・マハリシの「WHO AM I?」「私は誰か?」をご存じの方も多いと思います。
この「WHO AM I?」「私は誰か?」は、自分自身への問いかけですから、人に向かって質問するものではありません。ある時、覚者サダグルに向かって「WHO AM I?」「私は何者なのでしょうか?」と質問した人がいました。サダグルは「質問が間違ってませんか?質問するならWHO ARE YOUでしょ?その質問を他でしたら、キチガイ扱いされますよ」と皮肉っていたことがありました。
その時サダグルは、ラマナ・マハリシの「WHO AM I?」が世界にもたらした混乱についても言及していました。その質問をいとも簡単に口に出す人が出てしまうほど「WHO AM I?」というマントラが蔓延してしまったこと、また欧米に渡った覚者の言葉とその体験は、ある一部分を切り取られる形で一般に広まってしまったことなど、その社会現象について語っていたのです。
この「WHO AM I?」「私は誰か?」は、一問一答で完結する類の問答ではありません。さらに、自問だからといって、自分の制限あるマインド内で自問し続けても混乱するか、自問が終わるか、そのどちらかになってしまうことでしょう。
セルフ・インクワイアリーは、自問のプロセスでありながら、その道を知り、道案内となってくれる指導者のもとで、個々の気づきの段階に沿って適切に行われて初めて開花していくものです。また、誰もが取り入れられるものかというとそうではなく、この質問を自問する準備ができたものにベストタイミングでもたらされて初めて効力を発揮するものなのです。
「書き出せば自分がわかる、願望は実現する」2つの大きな欠陥
これもセルフ・インクワイアリーの一種と言えるものでしょうか、悩みを解決する方法、自分のやりたいこと、願望、自分の価値を知っていくために、とにかく自分の思っていることは何なのかを自問し、書き出すという手法があります。「書き出せば自分が分かる、書き出せば願望は実現する」というものです。最近では「紙と鉛筆さえあれば理想の自分になれる」と、魅惑的な言葉でお悩み解決を誘っているキャッチもありました。
自分の嫌いなこと、反応していること、嫌な感情、また好きなこと、欲しい物、なりたい自分などを書き出すことで、自分自身をより明確に知って理想的な自分になっていこうというものです。「私ってこういうことが嫌だったんだ」「あの人のあんなことに反応しているんだ」「そうだ!私はこういうことがやりたかったんだ」「私はこれが好きなんだ」と書き出すことで、より自分の理想の姿に近づいていこうという方法です。よく新月ごとに願望を書き出しましょうと提唱している記事を見ることがありますが、それもそのひとつの例でしょう。
実際、書くことによって願望を実現したという体験がある人も多くいると思います。しかし「自分の内面の出来事を書き出す」その手法を取り入れた人が陥りやすい大きな落とし穴があります。今回はそのところを見ていきたいと思っています。せっかくの書き出しを無駄にしないためにも、この観照眼を取り入れてみてほしいと思います。
「自分の内面の出来事を書き出す」これを独自にやり続けていても変化が起こりづらい理由には、2つの大きな欠陥が考えられます。ひとつは「何を書き出しているかを知らないこと」もう一つは「書き出していることを自分と同一化していること」です。
「え~そんなことありえない、自分の状態、自分の本音・願望を書いていることくらいわかってます」「これが私なんです」と言いたい人もいるかも知れません。しかし、この書き出しをやり続けたことがある人なら分かると思いますが、自分の書いたことを読み返してみると、何年間も同じようなことを書き続けていること、根本的には何も変化していないこと、あるパターンを繰り返していること・・・「自分の内面の出来事」はあるループを抜け出せていないということが往々にしてあるのです。
それはなぜでしょうか?「何を書き出しているのかを知らない」「書き出していることを自分と同一化している」という大きな欠落があるからです。自分の頭の中の声、自分の考え、自分の感情、感じていること、願望・・・それらはどこから来たのでしょうか?そして、書き出していることはあなたなのでしょうか?
エゴのコンテンツと習性を教えてくれる「エゴ日記」
頭の中の声に行動の答えを求める習慣は、いったい何をどうしてくれるというのでしょう?自分が反応している時、嫌な感じになっている時、やりたいこと、願望を日々書き出しているそれらの言葉の羅列は、言ってみればエゴの記録「エゴ日記」です。「エゴ日記」が無駄で価値のないものだと言っているのではありません。確かにエゴのコンテンツとその習性を教えてくれます。しかし、そのコンテンツを書き続けるだけでは解放は起こらないのです。
もちろん、それも解放へのプロセスではあり得ます。いつか、その囚われの繰り返しに気づき、馬鹿らしさに気づき、距離を置けるようになっていくときが来るかもしれないからです。何もかもナンセンスに感じ始めた時、目が洗われたかのように世界が違って見え始めることもあるからです。しかし「書くこと」を通して自分を知っていくにもプロセスがあり、道案内が必要であり、堂々巡りにならないよう細心の注意が必要なのです。
「エゴ日記」を超えていこう!
現実の出来事に対して、とりわけ強く自分の意見・思い込みを主張し始めた時、人は苦しみます。現実に対しての否定的、正義的、経済的、一般社会の常識的・・・あらゆる意見が混ざり合い、その思い込みを信じ込んだ時、私たちは現実の出来事をニュートラルにとらえることができなくなって、心も身体も大きく揺れ動きます。
この思い込みの思考は、四六時中私たちのマインドを駆け巡っていて、ある時ひとつの思考が罠にでもかかったかのように暴れだすのです。これが私たちの苦しみです。実際の出来事そのものではなく、それに対して信じ込んだことが全身を駆け巡って反動を起こすのです。その状態を、ストレス、欲求不満、不和、落ち込みと言ったりしています。
頭の中の声は、私なのか、それとも単なるオートマティックなマインドの習性なのか?頭の中の声を「書き出せば自分が分かる、自分の願望が分かる」と思って「エゴ日記」書き続けていたら、欠落感だけが残ってこの有限人生が終わってしまいます!
頭の中の声を聞くのも、書き出すのも、悩み解決、願望達成「好きなこと/やりたいこと」に限定して使うのではなく、現実の出来事をニュートラルに捉えることができるようになるため、物ごとを抵抗なしに、内面の葛藤、ストレスなしに見ていくためのツールとして、賢く使っていけるようになりましょう!