ナチュラルパワーの一環となる~現実創造「魂の本望」への道

 

「思いは現実を創造する」というセオリーの落とし穴

「思いは現実を創造する」確かに、考え方を変えたり、思いをある一定のことに仕向けたりすることによって、体験する現実が変わったり、思い通りの現実に近づいたように見えることがあります。結構な確率で「こんなことを思っていたら、その通りになったんです!私もついに現実創造の法則がどんなものかわかるようになったんです」という人が出てきたり、願望達成のセミナーに通ってモチベーションを上げ、夢を書き並べたり、ヴィジョンボードを作り始めたら「現実が変わり始めたんです。スゴイことが起こっているんです!」と体験している人もいます。また、それに関連した本もたくさん出版されています。ですから、それを聞いたり読んだりした人が「確かに、目に見えて彼女は変わった。成功している。楽しそうだ。私も現実を変えたい。私もやってみようかな?」と思うのも無理のないことだと思います。

しかし、そのセオリーにも落とし穴があって、上手く(?)現実化したことを好転現象だとすると、「思いは現実を創造する」と信じこんでしまった結果、逆に悪化を辿るケースも珍しくありません。現実創造の法則という概念にとらわれすぎて「一体私の何が悪くて、こんな現実を引き寄せたのだろうか?何が悪かったのだろうか?何を変えれば良いのだろうか?」と混乱し始めしまうのです。つまり、願望していない(?)現実に上手く向き合えなくなってしまうのです。実際その結果、思考の変更、感情のヒーリングに奔走する人も多く出現しています。そうなると事態はエスカレートして、潜在意識だけではもの足りず、過去生やご先祖さまからのカルマなど、思考では手に負えない領域にまで、悪いところ探しをエンドレスに追いかけることになるわけです。これがいわゆるヒーリング・クライシス(癒しの依存症)というものを引き起こしてしまうのです。

「この現実を引き寄せたのは私だ、現実を何とか出来るのも私だ」と決め込むのも、「なんて自分はダメなんだろう?こんな現実を作り上げて」と思うのも錯覚に過ぎず、そこに見ている現実も表面的な薄っぺらいものでしかありません。この落とし穴、ループに目覚めない限り、重たい現実は創造され続け、あなたはその呪縛から自由になることはできないのです。

「願望達成」志向はエゴの暴走になりかねない

現実は意図的に願望達成の目標を立てるまでもなく、常に創造されています。願望せずとも現実は創造されているのです。そこがわかっていないと、願望していない現実(魂が用意している現実)と上手く付き合えなくなってしまいます。それどころか、現実を否定し抵抗し、内面的外面的双方の世界において分裂を体験し続けてしまうのです。つまり、「私の思い如何で現実はどうにかなる」と思い込むこと、願望達成に情熱を傾けそれを人生の目的とすることは、すでに創造されている現実に対する「傲慢な抵抗」となり、人生の自然な流れ、恵みが常に現れ出ているにもかかわらず、そのビックチャンスには全く見向きもしないで、空想のチャンスを追いかけ続けていくことになってしまうのです。無闇矢鱈に願望達成に夢中になり突っ走ることは、現実をエゴのコントロール下におくことを助長するだけで、実は「望み通りの現実」どころか、現実を敵に回し続けている場合が往々にしてあるのです。それだけでなく、魂の学びにとっては、いつまでたっても真の創造本線に入っていかないことになってしまいます。しかし私たちは、もうこれ以上、魂の本望の道を回避したり延期したり、無視したりすることはできないのです。

私たちの人生は大自然の循環の一環として大胆に優雅に展開していて、意識的に思いを仕向けなくても「今この現実」が今ここに在ります。すでに起こっている現実は、あなたが望む現実とは程遠いように思えるかもしれません。しかし、なぜ私たちは「今この現実」を受け入れられないのでしょう? それは捻じ曲げられた私たちの思い込みが「これは違う。私が望んでいるものではない!」と慣習的に働いて「もっと考え方を変えたり、願望をはっきりさせればいいんだ。そうなれば安心だ」と誘惑してきて、本当の意味での自己実現の道「魂の本線」に行かせないように抵抗しているからなのです。なぜ抵抗し続けるのか、それは、生き延びたいエゴが必死になって死滅を恐れているからなのです。

願望達成に力を注ぎ込むことは、ともするとエゴの暴走になりかねなません。「私はこの現実を創造した」「私は自分の思い通りの人生を創造している」「これからも私の思いによって現実を創造していく」という時、この「私」とは一体誰なのでしょうか?その願望は「誰の」願望なのでしょうか?そこを気づきの意識から眺めてみるのです。 もしかしたら、「エゴの私」が自分自身を納得させたいために、誰かに認められたいがために、現実を操作しようとして入るのではないだろうか?それがどんどんエスカレートして、「私は現実創造の勝利者だ」とエゴが誇らしげに居座っているだけなのではないだろうか?と自問してみるのです。もし「なぜ私はこんな悲惨な現実を創造してしまったのだろう?」と思ったことがあるとしたら、そう思ったのは「私のエゴ」だと気づいているでしょうか? いつまで悲劇のヒーロー、ヒロインに徹して自分に攻め込んで責任転嫁させ、「魂の本線」を回避して延期して、無視していくつもりなのでしょうか?

 

Let It Go. サレンダー・なるように任せること

「エゴの私」は確実に、人生の道、魂の道、宇宙の創造とは別物、分離した想像物に過ぎません。でもどうしたら「私の願望」と「魂の本望」の区別が出来るのでしょう?「これだ!」と思った直感の一瞬後にやってくる「言い訳的な思考」を振り払うにはどうしたらよいのでしょう?どうすれば、「こんな現実を創造したい、実現したい」と、心をざわつかせる必要がなくなるのでしょうか?

Let it Go. レット・イット・ゴーという言葉が流行りました。これは、歌の中で「ありのままで」と訳されましたが、Let it go. の本当の意味は、「サレンダー、降参、なるように任せる、自然に任せる」という意味です。つまり、今、創造されている現実を自然に任せること、すべてはここから始まるということなのです。魂の道を歩む中で、私たちが第一に取り組む姿勢、これが謙虚にLet it go. だということなのです。これは諦めとは全く違います。「これが私の人生なんだ。だから受け止めるしかないんだ」といった可能性のない無力感を伴ったサレンダーではありません。「今ここに現れた現実」と正直な純粋な関係性を取り戻していくだけのことです。もしそこから何かしらの抵抗、反応が出てくるのであれば、少しずつでも調和を回復していくのです。そこに動き出してくる思考と感情は、思い込みや捕らわれの創りだしたアンバランスなエネルギーであり、そのアンバランスさがあるからこそ、そのお陰で私たちはバランスを取り戻すことが出来るようになっているのです。

エゴは、イラないものなのではなく、エゴというバランサー、バロメーターを通して、私たちはナチュラルな本質に立ち返ることが出来るのです。今ここに現れた現実、すべての現実を愛で受け止めていけるようになると、人生は優しく変容し、思いもよらないプレゼントをドンドン送り込んできます。英語でpresentという意味は「今、現在」と「贈り物、プレゼント」です。「今を生きること」からしか「プレゼント」はやってこないのです。今届けられているプレゼントを受け止めることから始めなければ、一生プレゼントを受け取ることができないのです。そのプレゼントの中身こそが、慈愛に満ちたナチュラルパワー、揺るぎない自信と平安なのです。

頭で思い描く願望は、脳の記憶した思考回路にある領域を飛び出ることはありません。そしてまた、一瞬願望達成され満たされたと思ったとしてもそれは長続きせず、また次の願望を作り上げなくてはなりません。けれども、ナチュラルパワーを受け取り始めたからには、私たちの人生は「魂の本望」の導く道が自然な形で開かれていくしかなくなるのです。思いがけないプレゼントが送られ続けてくる、その未確定な人生を楽しんでいくことになるのです。

愛と感謝を込めて
yukiko hirayama

2 Comments

  • Asuka
    Posted 2014年11月3日 07:53 0Likes

    yukikoさん はじめてコメントします。こんにちは。
    投稿をとても楽しませていただいています。
    今回の記事、ぼんやりと感じていて、うっすらと浮かんでいたことに
    やさしく輪郭を重ねてもらえたような気がしました。
    エゴに助けてもらえることをありがたいと思います。
    いつも全てに守られ支えられて生かされていることに感謝を感じます。
    yukikoさんの投稿とても楽しいです。
    いつもありがとうございます。

  • yukiko
    Posted 2014年11月5日 09:50 0Likes

    ASUKAさん、こんにちは!

    コメントありがとうございます。

    たぶん、みんな感じていること、違和感、疑問・・・そんなことを私が代弁するのがお役目かもしれません(笑
    ぼんやりと感じていた不調和も、ちょっと輪郭を付けることで意識は大きく変化します。

    宇宙的な流れに逆らわず、いつも信頼して感謝してサレンダー☆

    これからもどうぞよろしくお願いいたします。

    感謝☆

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