「カルマ」は宿命なのか、「カルマ」は超えられるのか?

「カルマ」は宿命なのか、「カルマ」は超えられるのか?

あなたにとって「カルマ」とは何でしょうか?
良い「カルマ」は、悪い「カルマ」を相殺することができるのでしょうか?
「カルマ」に対する誤認と可能性について、見ていきましょう。

「蒔いた種は刈り取らなくてはならない」でも、何を蒔いたか知らない

一般的に、「カルマ」とは「過去(過去世含む)での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれは必ず自分に返ってくる」「自分のとった行為の結果として受け取る宿命、因果応報の法則」として捉えられています。

「カルマ」というのは、日本語では「業(ごう)」と置き換えられることがあります。「善意と善行(善い業)は、善い報い・運命を、悪意と悪行(悪い業)はそれ相応の苦の報い・運命を生み出す」「自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならない」「自業自得」「天罰が下る」など、このような考え方は日本人にとっては慣れ親しんだ道徳観として浸透しています。

悪いことがあれば「あの人は普段の行いが悪いからバチが当たったんだ」「あの時あんなことをしたから(言ったから)それが今返ってきたんだ」と言い、良いことがあれば「あの人は普段の行いがいいからねぇ」「人に良くしていれば、巡り巡っていいことが返ってくるもんだ」「苦労したかいがあった」と言い、さらにはご先祖様も持ち出して、良いことが起これば「ご先祖さまのおかげだ」悪いことが起これば「先祖の祟りかねぇ」となり、ときには「善人なのにあんな目に合うなんて、先祖供養が足りないんじゃないかねぇ」と、ご先祖様への善行の足りなさのせいにしたりしています。

このようにほとんどの場合「カルマ」とは、ある原因があって、その結果としてそれ相応の報いがもたらされること、それは宇宙の法則であり、その法則の中に私たちは生きているものだと捉えられています。その延長線上で、原因が過去世にまで及んでしまうこともあります。そうなると、それは私たちの頭の理解を超えているので、とにかくできる限りの善行を積んで悪いカルマの償いをすること、あるいは、能力のあるヒーラーか霊媒師にお願いして悪いカルマを減らしてもらうしかなくなってしまうのです。

つまり、「カルマ」をこのような因果応報のコンセプト、法則として取り入れてしまった人は、暗黙の了解で自分ではどうにもならない人生を容認してしまいます。そのために、私にはわからないことだから、私は無力だからと、人任せの解決策を求めたり、宗教的教えに従順になって、記憶のない過去の過ちに対してまでも背負って、罪ほろぼしが今生の仕事になってしまう場合さえあるのです。

 

世界中ほとんどの人が「カルマ」を誤認している

しかし「世界中の90%以上の人、『カルマ』という言葉を日常使いしているインド人でさえも『カルマ』を因果応報の法則だと誤認している」と、インド人グルのサダグルは言っています。

それでは「カルマ」とは何なのか・・・サダグルは「この苦しい人生は私のカルマなのでしょうか?」「善いカルマを積めば悪いカルマは帳消しになるのでしょうか?」という質問に対して、「それはあなたのカルマではなく、あなたの記憶です」と答えています。

「カルマ」とは、実際は存在していないがあたかも存在しているように見える「過去の記憶の蓄積」である。肉体に蓄積された記憶、マインドに蓄積された記憶、感情体に蓄積された記憶、エネルギー体に蓄積された記憶、これら4つの記憶の総体によってあなたは成り立ち、あなたの人生すべては、これらの記憶によって営まれている。

あなたが見るものすべて、あなたの記憶を通して見られ、あなたが聞くものすべて、あなたの記憶を通して聞かれ、あなたが食べるものすべて、あなたの記憶を通して味わわれている。

あなたは、記憶なしにありのままを見ることができず、ありのままを聞くことができず、ありのままを味わうことができない。これらの記憶は、現実よりもより一層のリアリティがあるため、あなたは現実をありのままに見ることができないでいる。それを「カルマ」という。
(サダグル動画「カルマとは何か」より引用)

秩序とカオスの両刃を持つ「記憶」

記憶は、私たちに「安心感」を与えてくれます。すでに知っているもの、聞いたことがあること、食べた事がある味、慣れ親しんだ場所と人、記憶の中にある情報の繰り返しを私たちは「安全」と捉えます。それ以上に「記憶」がもたらす安全性がなければ、私たちは日常生活、社会生活を営むことが出来ません。どんないきものも本能的な記憶、慣れ親しんだ記憶なしには生きられないのです。私たちのパーソナリティーの違いは「記憶」内容の違いであり、人間関係も、お互いに「記憶」があるからこそ安心感を持って関わりあえています。

私たちは「記憶」なしには生きていくことができない、ところが、この「記憶」によって、私たちは苦悩の海に溺れ、自分自身を牢獄に閉じ込め、真に自由になることが出来ないのです。「記憶」が秩序を作り、同時に「記憶」がカオスを作っているのです。

そしてほとんどの人は、完全に無意識にサダグルの言う4つ「記憶」に突き動かされて生きています。この無意識なあり方こそが「カルマ」を宿命的なものとしてしまうのです。

 

「自分の人生は100%自分が作っている」この気づき=「カルマ」を超えて生きること

誰もが「記憶」というヴェールに包まれて生きています。そのヴェールには外鍵、あるいは内鍵がかけられています。あなたが外鍵によって閉じ込められていれば、あなたは自分の「記憶」の犠牲者になり、外の他者に対して怒り叫ぶ苦悶の人生を作り出します。自分で内鍵をかければ、文字通りの自閉症となり、うつになって「記憶」の中に幽閉された人生を作り出します。

これらの鍵を外していく鍵は、もちろん記憶喪失になることではなく、「記憶」を遠くから眺められるようになることです。完全無意識に自動可動する「記憶」を意識的に距離をおいて見れるようになることです。それが「カルマ」を超えて生きるスタート地点です。

「カルマ」を超えて生きるとは「自分の人生は100%自分で作っていること」この気づきと自覚から始まります。「記憶」を遠くから眺めることを忘れずに、自分の内面で起きていることに責任を持って向き合っていくことです。

自分にはどうにもならない人生を容認して宿命的「カルマ」を生きるのではなく、すべての「記憶」は今この私の中にあり、私はその集大成であり、しかも、私は今この瞬間にそのすべての「記憶」から自由であるとわかれば、それが「カルマ」を超えたあり方であり、そうなって初めて揺るぎない真の安心感が蘇って、この地球での人生を謳歌することができるのです。

「カルマ」というのは、すべてが先祖から受け継いだ無意識の条件付けになっていて、それを本当の自分だと思い込んでいることです。その状態を何度も何度も強制的に生きさせ、何度も何度も考えさせようとするのが「カルマ」です。しかし、新しい意識が現れることによって、それは終焉を迎えます。そうなって初めて、思考は実質的な世界で正しい目的を果たせるようになるのです。
(エックハルト・トール動画「人生の目的」より引用)

ある時、自分が「カルマ」を作っている状況がわかり始めてきます。また、「カルマ」を重ねてしまう前にそこに歯止めをかけることもできるようになってきます。つまり、今の時代は、「カルマ」を解消することが出来る時代なのです。これ以上「カルマ」を引きずって生きるのでもなく、また、更なる「カルマ」を作ることもしないのです。

今私たちは、そういう時代を生きているのです。最初に言ったように、「恐れ」もなくしていきます。「恐れとカルマ」、この2つを手放していく必要があります。私たちは「カルマ」がこれ以上存在することのできない新しい時代の地球に突入していっているのです。「カルマ」に捕らわれ引きずられている人は先に進んでいくことはできません。

((ドロレス・キャノン動画「カルマと恐れ」より引用)

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